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(5/7) 郷愁の碓氷峠

 明治26年東京と裏日本を結ぶ幹線鉄道信越本線が開通した。併しこの線は碓氷の天嶮を越えねばならず、当時の技術では登山鉄道にならってアプト式ラックレールを採用するより他はなかった。
 以来信越線は軽井沢・横川間を超低速で走るという重い(くびき)を背負い乍ら20世紀末迄、その間多少の改良は見られたものの、66.7プロミル(1000米走って66.7米上る)の傾斜はそのままで、100年余りも存続してきたのである。これはまことに不合理極まりないことであり、平成9年9月30日長野新幹線の開業と同時に軽井沢・横川間は廃止されてしまった。
 従来この隘路(あいろ)打開のためループ線建設又は全く別な迂回線新設といった抜本的な改革案が提案されたが両者共費用がかかり過ぎるという理由であえなく見捨てられ、強力な粘着運転の電気機関車EF62、63を投入して迄この碓氷線ルートが固執されてきた。しかし、昭和6年に全線開通した上越線でさえ、水上・越後中里間に二つのループ線があり、碓氷線のアプト式を廃止しEF62、63を投入した当時(昭和38年)ならループ線を作ることなどは費用的にも技術的にも十分可能であった筈だと私は今でも信じている。廃線になるその日迄存続した隘路の内容は横川・軽井沢両駅でこの急傾斜のために要する補助機関車の取りつけ、取り外しに夫れ夫れ4分、3分の停車時間を要すること、碓氷線区間に限り超低速運転(軽井沢行き時速39.5粁、横川行き時速28粁、平成9年9月現在)を余儀なくされることで、以上二つの条件が終始変ることなく蟠居して幹線鉄道に要求されるスピードアップの達成を阻んだのである。この度の長野新幹線の登場に伴い、地元住民の切なる希望も空しく廃線の決定を見たのは一にかかってこの急傾斜区間の存在にある。碓氷線に対する愛惜の気持ちは長野・群馬両県民に止まらず、全国のレイルウェイファンの心の中に尚生き続けることであろう。
現在は国の経済も傾いて碓氷線の復活などは話題にも上らないだろうが、何れ経済状態がよくなれば、横川・軽井沢間にループ線を新設し、上野から来た電車がそのまま長野迄或いは直江津迄行ける日が来るに違いない。新幹線が通ったからと云って東海道、山陽線はおろか、東北線も上越線も在来線で分断された処は無い。旧信越本線は上野・直江津間を結ぶ価値ある日本横断幹線鉄道である。
 惜しまれ乍ら消えて行った碓氷線に捧げる挽歌と、新に生まれ出たフル規格長野新幹線に贈る讃歌をないまぜに胸中深く抱き乍ら私は今後も碓氷峠を超える鉄路の動きを見守って行きたいと思う。
関口 隆